やっぱあたしが行くべきとこだったじゃないか


だから呼ばれたんだ喜多方

頼義と義家までがセーフ

それ以降はほとんどがアウト

つまりあたしが行くべき場所は義家と頼義のポイント

これがあたしの血筋でいうあたしの最後のつとめ

あとやたら調べ物してると日本武尊出てくるけども、日本武尊の親 景行天皇

嫁ふたり

片方は倭と書いてあるけどこの倭は白江村の戦いで百済救出に関与した倭だぞ??

それと別の嫁は八坂 八坂の子に多賀

その八坂は神社にして全国にあっけど、多賀なんて殺されたも同然

なのに天皇血筋はひとつで脈々とつながってるって??

その日本武尊の流れはつまり百済百済

あちこちの神道関係者はやたらと日本武尊を押すけど、それは百済のためなんだぜ??

今の天皇家百済難民系で、唐は嫌いなんだよ。

唐と百済は白江村の戦いで殺し合いしてんだから。そんで負けたのが百済

唐が日本にいたとさいさん書いてるのに、それを隠そうと動いてる集団がいる。

そのバックに中国の一部の層もいるようだから、んじゃアンタ達は日本に唐があった

ことがとても不都合なんだねと書いてんだ。



うちは唐寄りだから、百済と殺し合いの立場関係にある。

んじゃまだまだ書いてやれば白江村の戦いで唐に沈められた百済はどんどかと

日本に入ってきた。



その後それの血筋に桓武天皇がいる。もちろん百済の流れをくむ血筋。

それが東北征伐??  そんなもの 八坂の子多賀が東北に君臨してたからに決まってる

だろ。



だから多賀城国府があったんだ 昔。

その多賀国府を多賀から霊山に移したのが北畠顕家。その霊山城に多賀国府

置いてたのを何度も攻撃してがちやがちゃにしたのが相馬一族九曜紋。

それがお祭りだって??  殺してくれと言ってるようなものだとさいさん言ってる意味

まだわかんねーか??



そして多賀が陥落した理由は桓武の流れ それが八坂の系統の場所から追い出し

と略奪をやった。その頃に発掘で出る金をかき集め京へどんどん運んだ。

京の元手に東北で眠ってた金が使われた。

桓武は九曜紋の流れだから。桓武平氏は九曜紋が多いんだ。



それが天皇血筋だと捏造してる連中は何代にもわたって、その嘘っぱちを拡大拡散

させ継承しているわけだ 何人にも膨れ上がって。



それを一人で撃退する力というのは、どれほどの力なのか。



その血筋の若頭 北畠顕家が尊敬してたのは源頼義 あたしはその流れをくむ。

その顕家を早々と殺し、その後に桓武の流れをくむ連中がやらかしたのが

源平の戦いってわけ。



その源平の戦いで一番損をした源義仲こそ 最後のうちの系統の頭領。

だから義仲の嫁は新羅系統だ。



全国の八坂神社は新羅系統

八幡神社は唐系統

なぜこれが成立すんのか。この答えは白江村の戦いにある。

白江村の戦いでは唐と新羅VS百済+倭 ほんで百済と倭が負け。



なのに宮司たちは百済と斉の流れが作った日本書記と古事記をベースに宗教商売

やってきた。しかしそれが鮮明になったのは明治だ明治。ふざけやがって。


うちには昔 北畠顕家の幟旗と熊野権現があったとじいちゃん記録にある。

昔の熊野信仰はうちの家系に何かを残してた。

それをうちを放火や略奪で襲ってきた歴史の相馬藩住民が大火を引き起こし

焼失だとほれ。


あたしんちは青森浪岡なんかとは別格だ。

それを霊山略記編集したのが権現ふたつも持ってたうちを差し置いて浪岡系統だぜ??



怒りがな おさまらない。





歴史[編集]

新宮熊野神社は、平安時代後期の天喜3年(1055年前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後、寛治3年(1089年後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという。この時、同時に熊野本宮社を岩沢村(喜多方市上三宮町)、熊野那智社を宇津野村(喜多方市熱塩加納町宇津野)に遷座・造営したが、後年、この2社は新宮社に遷され、現在、神社には本宮・新宮・那智の3社が祀られている。




喜多方にまた行く理由を見つけた。



www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/kumano.html - キャッシュ
会津は、奈良、京都に次いで神社・仏閣の多いエリアであるといわれ、古の歴史と文化 がいまも色濃く残る土地です。新宮熊野神社は、天喜3(1055)年源頼義・義家親子が「 前九年の役」で陸奥征伐に赴く際、武運を祈って紀州熊野から勧請創建したのが始まり  ...

ja.wikipedia.org/wiki/新宮城_(陸奥国) - キャッシュ
新宮城 (陸奥国)
新宮城(しんぐうじょう)は福島県喜多方市慶徳町新宮にあった中世の城館(日本の城) 。会津盆地北西部に位置し、城の南西部には新宮熊野神社が祀られている。佐原義連 の孫・新宮時連が建暦2年(1212年)に築いたといわれている。 2009年7月2...

新宮氏 (陸奥国)[編集]

新宮氏(しんぐうし)は、鎌倉時代室町時代初期にかけて陸奥国(後の岩代国耶麻郡新宮荘(福島県喜多方市)を支配した氏族。本姓は平氏佐原義連の子・盛連の六男・時連を祖としている。
盛連には5人の兄がおり、長兄・経連猪苗代氏、次兄・広盛北田氏、三兄・盛義金上氏、四兄・光盛蘆名氏、五兄・盛時加納氏の祖となり、それぞれの子孫は会津各地を分割支配した。新宮氏は新宮城を築城して居城とし、また、新宮熊野神社を厚く信仰して多くの寄進を行なっている。室町時代になると新宮氏は同族の蘆名氏と争うようになった。新宮氏は応永9年(1402年)には加納氏を滅ぼし、また、同族の北田城主・北田上総介と結んで蘆名氏と戦うが、応永16年(1409年)に北田氏は蘆名氏に滅ぼされた。その後も一進一退の攻防が続いたが、応永27年(1420年)に蘆名盛政新宮城を落とし、当主・新宮盛俊は戦死し、残党は越後に落ち延びた。永享5年(1433年)、新宮氏残党は越後国小川庄津川城を攻めたが、城代・金上氏によって撃退されて滅亡した。新宮氏滅亡後、会津は豊穣になったとの記載が『塔寺八幡宮長帳』にあり、このことから新宮氏と蘆名氏との戦いで会津盆地が荒廃していたことが窺える。



はい見つけた。やっぱあたしが行くべきとこだったんだな。

熊津都督府(ゆうしんととくふ)は、百済を滅ぼした後、現在の忠清南道に相当する百済旧域の管理を目的に設置した植民地。唐が高句麗百済を滅ぼした後、旧高句麗領を安東都護府、旧百済領を熊津都督府新羅藩属国から鶏林州都督府へ切り替え、半島全域を羈縻州とした為、一時的に朝鮮半島から国はなくなった。

唐軍将領の王文度が死去すると百済再興の機運が高まり、扶余璋の従子である福信は王文度の死去に伴う政治混乱を利用、日本から扶余豊を招いて擁立、周留城を拠点に日本(にいる協力関係勢力)と協力し唐朝を攻撃した。唐朝は661年龍朔元年)に駐留した唐軍将領であった劉仁願を、熊津都督、帯方州刺史に任命、663年龍朔3年)に白村江の戦いにて百済・日本連合軍を破り、百済再興計画は失敗している。

↑日本はまるで百済勢力扱いだな。間違いだから追記してある。


そして白江村の戦いの倭とはアベ氏とケノ氏のみ。
その他が倭と位置づけしようがないのは、倭勢力とは関係ないから。


熊は楚

楚は熊本一部と和歌山一部

荊は茨 茨城

中国の春秋時代にすでに、日本へ移民が大量に起きてる。

広島に呉があんのはその名残り。

過去書いてないが、唐と新羅と日本はパイプがその当時から繋がっていた。

行き来もかなり起きてる。

それが消されてる。

春秋時代(しゅんじゅうじだい、中国語春秋時期拼音Chūnqiū shíqī)は、中国の時代区分の一つ。紀元前770年幽王犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、が三国()に分裂した紀元前403年までである。
春秋の名称は、四書五経の一つ『春秋』に記述された時代、という意味を持つ。
春秋時代戦国時代をあわせて、春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)といったり東周時代(とうしゅうじだい)といったりする。どこをもって春秋時代と戦国時代の境目とするかは歴史家の間で意見が分かれている。


楚の威圧に怯えた小国は仕方なく服従していた。しかし斉に桓公が登場し、楚に対抗したことでこれら小国は斉に助けを求めるようになった。楚と対決した桓公は、召陵において楚の周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。これにより諸侯間の盟主と成った桓公は、紀元前651年に葵丘(現在の河南省藺考)において会盟を開き、周王に代わって諸侯の間の取り決めを行った。この業績により桓公覇者と呼ばれ、春秋五覇の第一に数えられる。もっとも、斉の覇権は中原を中心とした黄河流域に留まり、敗れたとはいえ楚が長江流域に勢力圏を形成するのを止める力はなく、以後も中原の最大勢力(斉・宋・晋)と南方の楚の争いは続くことになる。
しかし管仲の死後、人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から転落した。これに代わって覇者になろうとしたのが襄公である。の遺民たちの国で、国力は中程度という宋だったが、襄公は桓公の後を継いで天下を治めんという高い志を抱いていた。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(河南省睢県)にて会盟を開いた。しかし、この会盟で宋に主導権を握られることを嫌っていた、参加国の楚の重臣に監禁されてしまった。襄公はいったん帰国して楚と決戦に及ぶ(泓水の戦い)が、敵に情けをかけた結果(宋襄の仁)大敗し、覇権の獲得は成らなかった。

ここに出てくる斉と桓公の流れがインチキ天皇家だ。それが北朝

荊と楚と魏は戦をしていない。

魏と戦になってるのは赤壁の戦いで呉だ。


この歴史を繰り返してるだけだから、舞台が日本に移ってるだけ。
それも過去書いてるけど、修正できない人たちが大勢いるらしい。
利権が変わるからなんだろうけど、どっちにしろあたしに破壊されるハメになる。